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プロフィール

自己紹介

1959年1月30日。愛知県名古屋市。

NHKの教育テレビが始まって3週間目だった。私の父「鎭孝」はその日、冬の肌寒さをまったく感じることがなかったそうです。そりゃそうだ。その日は私の誕生日。母「あさ子」と父が、私「昭雄」の誕生を喜んだ記念すべき日なのです。伊勢湾台風や皇太子ご成婚(現天皇陛下)で有名な昭和34年ですが、ぜひご記憶いただきたい。昭和34年、1959年は「富田昭雄」の生まれた年です。
三種の神器だ、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)だ、東京オリンピックだ…、世の中が急激に変わっていった時代です。私はそんな高度経済成長時代の変化の中で生きてきました。
ウルトラマンなんかも放送がはじまって、世の中に物語のヒーローが続々と出はじめた頃でもあります。当時の私は子供心ながら、何となくこんなふうに思っていたを記憶しています。

「ヒーローになりたい」

小さな頃から情熱の輪の中心で活躍することが大好きでした。
名古屋市立猪高中学卒業、名古屋市立北高等学校を卒業。中学・高校の頃の昭雄クン(私)といえば「よっしゃ、オレがなんとかしたる」「オレがこの場は仕切ってみせる」なんて…。なんでもかんでも首を突っ込んでいたような気がします。とにかくオレがオレが…って。早い話が「ボスザル」。そうじゃなけりゃ自分自身の気が済まなかったんでしょうね。ボスザルとはいっても、グレることはありませんでした(‥‥と思う)。正義じゃないことは許せない性分でしたから。‥‥と…自負してはいるのですが、その辺は子ども時代のこと。いたずらして近所の大人に叱られた経験だってないといえばウソになります。

高校時代からラクビー部に所属。

とにかくラグビーこそ我が青春。ずっと続けたかった。その一心で当時ラグビーの強かった名城大学に進学することを決めました。今考えれば「おいおいもう少しちゃんと考えろよ」と、当時の昭雄クンに厳しくアドバイスしてやりたい気持ちでいっぱいです。思慮なく行動してしまうのはB型人間の悪いクセでしょうか。いえいえ決して、後悔はしていません。地元大学にいたからこそできる経験もできたわけです。私の性格上、過去を悔やむことはありません。。

リーダーシップを発揮した大学時代。

文化庁と(財)日本青少年研究所の主催で20年以上続いている全国イベント「全国高校生の主張」「全国高校生音楽祭」のプロデュースを経験しました。全国の学校をまとめるのです。カンタンじゃありません。骨が折れる役割だったけど、これをやり遂げてよかった。
ちょっとだけ自慢なんですが、私のこの活動を始点に、今現在もなお同イベントが続いているといいます。(同イベントの本が毎日新聞社より出版されている。)うれしいことではありませんか。
これがきっかけになって、教育問題なんかにも興味をもつようになったし、この頃のつながりで、今でもあらゆる情報交換をしています。思えば、とても意味のある活動だったといえます。

同じ頃、民社党(当時)の春日一幸氏の選挙を手伝う経験をしました。政治家を目指すきっかけは、もうまちがいなくこの経験です。今でこそ「マニフェスト」なんて横文字が一般的になりましたが、私の学生時代に、公約を有名無実にしないために苦労している政治家がいた。その姿に出会って、若い私はかっこよさを感じたものです。

その後、大学は卒業しませんでした。

大学を中退するつもりはなかったのですが、父親の家業が失敗して、退学のやむなきに至ってしまったのです。いえいえ、親のせいにするつもりは毛頭ありません。バイトをしながら学生生活を続けることもできたでしょう。しかし、その選択はしませんでした。苦労して学生生活を続けることにあまり意味を感じなかったんです。
ま、東大生だったら辞めんかったかもしれんけど…。

1983年。ダイエーに入社しました。

その職場では主に販促や企画を担当(シニアマネージャーを歴任後、大阪本社 西日本開発本部に所属し店舗開発を手がける)。明確な入社動機は今やはっきりと思い出せないのですが、この社会人経験も私にとってとても有益なものでした。
顧客重視の姿勢、ホスピタリティ、効率の追求、自分自身のジャッジ。流通業のシゴトはいろいろ学ぶことができました。
今でもそう思うのですが、企業の経営ジャッジは、お上より完全に早い。こういうスピード判断と行動を要求される業務は、いまの私の素地になっています。
私が勤務していた頃のダイエーでは、最大限に権限委譲され、現場のチカラによって店舗全体を動かしていました。既成のルールではなく、現場のモチベーションが大組織を動かす。この経験を語り出すと、私は政治家ではなく「流通業界の人」になってしまうのでこの辺にしておきましょう。

「このままふつうのオジサンになるの?」

シゴトはたいへん充実していたのですが、私はふとそんなふうに思いました。
「このままじゃただのオッサンになる」そんなのは考えられなかったわけです。
沸々と若い頃の記憶がよみがえってきました。みんなの意見をまとめ、みんなが喜んでくれることをプランニングし、それを成し遂げた時の、あの充実感。あれこそが私の天職ではなかったか。人の役に立つことこそ富田昭雄の生業なのだ、と思ったら、ぼんやりと方向が見えてきました。
それが政治の道であることに私は気づきはじめたのです。
自分の胸の内を語ると、ウチのカミさんは「いいじゃない。いよいよあなたの出番でしょ」(妻:かおり)と、なんともあっさりと背中を押してくれました。いつもリキみや気張りをとってくれるウチのお母ちゃん、感謝しとるよ。

1998年、古川元久事務所入所。

そんな折、民主党の「古川元久」氏の秘書の話が舞い込んできました。1998年です。です。彼は私よりドえりゃあ若いのに衆議院議員。その志はなかなかのものです。私は彼の事務所に迷わず入所しました。秘書活動に就いてからは、すべてが勉強です。何でもかんでも全部吸収するつもりでした。
私の気性なので仕方ないのですが、実際に働いているとどんどんモチベーションがあがってくるわけです。そう思うといても立ってもいられません。

翌1999年。県会議員に立候補。

当選を果たしました。二世議員でもない、企業経営者でもない、コネもない、地元の名士でもない。でも意志があれば通じるんだ、と確信するとともに、支持してくれた方々には大感謝です。応援してくれたヒトには足を向けて寝られない‥‥なんて言うと、ずっと立ってなきゃいけないほどです。

議員1年生になって。

さてスタート地点に立ちました。私は地域の人のために働くことができる喜びと闘志でいっぱいでした。
学校を訪問しました。教育現場崩壊の実態を見るにつれ、この現状を打開する手だてを早急に打たなければいけないことを痛感。さまざまな教育現場の声を聞き、自分が教育界に提案できることを探しつづけています。
介護福祉の現場の声を聞きました。介護が必要な人に必要なサービスが提供できていない現状の制度を知るにつれ、制度の歪みを是正しなければならない責任を感じ、医療法についてを学んでいます。
男女平等なんていいながらまだまだ偏った社会を知りました。自分ができることは何かを考えさせられ、産業社会に男女共同参画の仕組みをどう浸透させるかに取り組んでいます。
モラル・マナーのカケラもない違法な行いをする輩たちの実態を目にました。すぐに解決しなければならない問題もあり、対策を施しました。
やってもやってもまだ足りない、と思います。自分の力不足を棚に上げて言わせてもらえば、やればやるほど大きな障壁があらわれるのです。だからこそやりがいたっぷりなんですけどね。

そして今。

県会議員に当選してからすでに15年目。三期目の当選も果たすことができましたが、2011年の4月の選挙で惜敗。只今、充電中。しかし、私の『世直しの心』の火はまだ燃えています。再起をかけて奮闘中です。たとえどんなに大きな障壁あろうとも、ますます熱く行動する「とみ吉オジサン」であり続けようと思っています。みなさんのお役に立てることは何か。とみた昭雄は、今日も考え続け、行動し続けています。